君の望む死に方

君の望む死に方 (ノン・ノベル)

君の望む死に方 (ノン・ノベル)

本人も言っているように、優佳の考えは、それほど論理的なものではない。(中略)自然な仮説ではあるけれど、確実にそうだと自信が持てるレベルのものではない。それでも当ててみせた。あのような思考法をなんというんだっけ。そうだ、推理だ。彼女は目の前の情報から、推理によって、梶間が左ハンドルの車に乗っているという仮説を導き出したのだ。論理というより発想。その思考の柔軟さに、梶間は感心した。(75ページ)

これは、時折見掛ける〈石持作品へのロジックの脆弱さの指摘〉に対する返答だろう。考えてみれば、ホームズの昔からミステリにおける「推理」というのは上記のようなものではなかったか。「論理というより発想」という石持の主張(?)には、発想の美しい飛躍もまたミステリの醍醐味のひとつだと考えている者にとっては素直に頷けるものがある。冷徹なロジックを求めてホームズの推理譚を読み進めていたわけではないのだ。
さて、『君の望む死に方』は『扉は閉ざされたまま』に続くシリーズ第二弾で、「よくこんな話を長編に仕立てたものだ」という驚きは前作をさらに上回るが、全体的な面白さは前者のほうに軍配が上がる。殺されたい者と殺したい者、鍵と鍵穴のようにぴたりと一致した二人の男の思惑は、一致しているからこそ話の盛り上がりを削ぐ。中盤に入るまでこの退屈さを我慢しなくてはならないのが本書最大の不満だが、ひとつの椅子が移動した途端、話は俄然面白さを増すのだ。この、たったひとつの椅子の移動で劇的な効果を挙げてみせるところが石持浅海の真骨頂とも言えようか。
椅子の移動以降、ゲームの勝利者となるために、第三のプレイヤーは躊躇いなく無関係な他者の心さえ手玉に取ってみせる。そこに人間らしい情はほとんど挟み込まれない。これは(おそらく)ゲームなのだ。読者もそのつもりで読み進めないと、徒に不快な気持ちを持て余すことになるだろう。しかし、本編においてそれは不幸せな読み方だと思う。読者はただ、石持浅海が用意した盤上のゲームが如何なる終焉を迎えるのか、黙ってページをめくれば良いのではないか。
なお、結末が曖昧なままにされているようにも読めるが、これはリドル・ストーリーではない。あるひとつの可能性のみ排除されていないが、作者はおそらく明快に結末を用意していたものと思われる。試しにもう一度冒頭を読んでみてください。